毎日新聞連載:大空襲・大爆撃訴訟を追う

東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う(1)声なき声

毎日新聞 3月7日朝刊 〔都内版〕
約10万人の命が奪われた1945年3月10日の東京大空襲。空襲被害者が国に損害賠償を求める初の集団訴訟が昨年3月、東京地裁に提訴され、まる1年を迎える。日中戦争時、日本軍は中国・四川省への重慶爆撃を行った。この爆撃に対し、中国人遺族らが日本政府に賠償を求める重慶大爆撃訴訟も同地裁で進行中だ。大空襲被害者たちの裁判のこの1年を追う一方、無差別爆撃による同じ恐怖の空の下を生きた中国人被害者たちの訴えを現地から報告する。【沢田猛】

◇民間人に、なぜ補償ない 「受忍論の打破」課題
 都立横網町公園墨田区横網2)の一角に建つモニュメント「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。内部に戦時中の一連の東京空襲の犠牲者名簿が納められている。近くに都慰霊堂が建つ。
 「慰霊堂はもともと関東大震災の犠牲者を悼む震災記念堂でした。戦後、慰霊堂に改称され、空襲犠牲者の遺骨はここに納められた。空襲犠牲者は慰霊堂に同居を強いられました。広島や長崎のような独立した追悼施設が空襲犠牲者にはなぜないのか。裁判を起こしたのは、空襲犠牲者の遺族らの声を無視してきた国の姿勢を正すことも含まれます」
 東京大空襲訴訟原告団の星野弘団長(77)はモニュメントの前で複雑な表情を浮かべた。
 大空襲の被害者や遺族ら112人(57〜88歳)が国に1人当たり1100万円(総額約12億3200万円)の損害賠償と謝罪を求め昨年3月9日、東京地裁に提訴した。
 訴状によると、旧軍人・軍属やその遺族は国家補償を受けているが、空襲などの民間被害者に補償制度がないことから「法の下の平等に反する」と主張。大空襲が、日本軍の重慶爆撃などの先行行為の結果として受けた被害である点からも国の責任を指摘している。
 これに合わせ、空襲被害の実態調査や国立の追悼施設の建設なども求めている。
 提訴以来、これまで口頭弁論は4回開かれ、原告らの主張に対し国は事実の認否をせず事実関係に関する証拠調べも不要と主張。全面的に対立している。
 空襲訴訟を巡っては最高裁が87年6月、名古屋市の2女性が国家賠償を求めた訴訟で「戦争は非常事態であり、犠牲や損害は国民が等しく受忍しなければならなかった」との判断を示し、原告敗訴が確定している。
 星野団長は「国際的にも異例といえる民間人は我慢せよという受忍論をどう打破していくか。私たちの課題です」と力を込める。
 原告団の平均年齢は74歳。戦後60年有余。長い沈黙の後に提訴された訴訟には、戦災孤児などとして戦後を生きねばならなかった原告らの長く苦しい現実があった。
 「当初、原告希望者は200人近かったが年金生活者も多く、経済的な理由から辞退者が相次いだ。お金が工面できず『悔しい』と嗚咽(おえつ)をこらえ辞退を告げる、その声を聞くのがつらかった。こういう声なき声にも答えていかねば……」
 星野団長は表情を曇らせ、口元を引き締めた。高齢者たちの人生最後の闘いはこうして始まった。=つづく

東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う(2)戦災孤児

毎日新聞 3月8日 〔都内版〕
◇自らの体験重ね追跡調査−−実態反映せぬ人数
 「戦災孤児たちの調査を始めて約20年。私以上にみじめな体験をした孤児たちの存在を知って、追跡調査に拍車がかかりました」
 東京大空襲訴訟原告団副団長の金田マリ子さん(72)=埼玉県蕨市塚越=は自らの体験を振り返る。執念ともいえる調査をこれまで数冊の本にまとめてきた。
 あの日の光景が忘れられない。当時9歳。家族は母と姉妹との4人。一家は学童疎開先からの金田さんの帰京を待って、大阪府内に家族疎開する矢先だった。45年3月10日の早朝。夜行列車で国鉄(現JR)上野駅に到着。一面の焼け野原に、転がる黒焦げの死体。自宅のある浅草区(現台東区)に母らの姿はなかった。
 「母と姉は隅田川から遺体で引き揚げられましたが、妹は現在も行方不明。私はその後、奈良県兵庫県などの親類をタライ回しされました。従兄(いとこ)には『親なし子』、結核になっても医者に行けず、従姉(いとこ)からは『怠け者』といわれながら、コマネズミのように働かされました。早く死んで母の所へ行きたい。そればかりを考える中学生活でした」。高校を卒業できたのも母が残した貯金通帳のお陰だったという。
 大空襲訴訟弁護団の調べでは、被害当時の原告年齢は60%近くが15歳未満。両親を含む親族を失った者が44人で、全体の約40%にのぼり、孤児の存在が際立つ。旧厚生省の48年の調査によると、全国で孤児数は12万3511人。このうち戦災孤児は2万8247人。この中に「浮浪児」は含まれていない。
 「学童疎開中に親も家も奪われ、帰るところがなくなり、浮浪児になった子は多く、戦災孤児データは実態を反映していない」と金田さんは指摘する。
 金田さんは高校卒業後、上京。親類宅で「あのとき(3月10日)、親と一緒に死んでくれればよかったのに」といわれ、独りで生きていくことを決意。ボストンバッグ一つが全財産。ホステスやお手伝いなどをして自活の道を開き、つらい日々は25歳で結婚するまで続いたという。
 「孤児たちが語れるようになるには60年という歳月が必要でした。自殺した孤児、ボロボロに働かされ病気で伏せている孤児たちの分まで代表しています。我が国は『天皇の赤子(せきし)』と教育されてきた子供が戦争で孤児にされても、一切の援助や補償、謝罪をしないのでしょうか」
 昨年8月30日の東京地裁であった第2回口頭弁論。金田さんの意見陳述に、廷内は静まり返っていた。【沢田猛】=つづく

東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う(3)棄民

毎日新聞 3月9日朝刊 〔都内版〕
◇惨状伝える「夢違地蔵尊」−−残された子の受難
 墨田区を南北に流れる大横川が、新大橋通りと交差する地点に架かる菊川橋。橋のたもとにある児童遊園内に建つ夢違(ゆめたがえ)地蔵尊。その縁起史碑は「この地の殉難者数約三千余名」と大空襲の日の惨状を伝えている。
 久しぶりに橋に足を運んだ東京大空襲訴訟原告団副団長の城森(きもり)満さん(75)=横浜市都筑区茅ケ崎東=は、たもとにしばし、たたずんでいた。あの日、父母と末弟の命が奪われた苦い過去を思い出させる場所だったからであろうか。
 「橋は両方向から逃げまどう人たちでごった返し、火の海は橋の両側から迫って退路を断ち、最後に父は川に飛び込んだと聞いていますが、3人はいずれも亡くなりました」
 城森さん一家は空襲当時、本所区(現墨田区)菊川町に住み、父母に、兄弟4人(男3人、女1人)の6人家族。父弘さん(当時46歳)は弁護士でクリスチャン。弁護活動の傍ら、日曜学校の運営にも力を注いでいた。長男満さんは当時、12歳。学童疎開先にいて難を逃れた。
 城森さんは両親らの死を疎開先で聞いた。城森さんと妹(当時10歳)、次男(同8歳)の3人は戦災孤児になった。戦後に続く苦しい日々はここから始まる。城森さんらは母の実家で農業を営む伯父宅に引き取られた。
 毎日の畑仕事に朝夕の牛の世話。学校以外の時間は午前6時から午後9時まで休みなく働かされ、慣れない仕事がつらかった。加えて、農作業中に、伯父の息子たちによる嫌がらせと「食いっつぶし」という罵声(ばせい)を浴びる日々。
 城森さんは学業を続けるのが困難となり、旧制中学3年で中退。伯父の家を飛び出し、繊維関係の企業に就職。社員寮での生活を始めた。その後、次男、妹もそれぞれ他の親類に引き取られた。
 「戦争で多くの犠牲を強いられたのは子どもたちです。学童疎開閣議決定により政府が推進した国策でした。疎開で親と子どもを半ば強制的に引き裂き、空襲で親が犠牲となり、取り残された子どもに戦後も救援の手を差し伸べず、放置してきたのは政府です。戦災孤児のその後は棄民同然でした」
 城森さんを裁判に駆り立てたのは、両親を含め家族6人を失って学校を中退、奉公生活を強いられた戦災孤児がいたように、自身の体験より、さらに差別的な扱いを受けながら、歯を食いしばって生きてきた人たちがいる現実を目の当たりにしたことからだった。【沢田猛】=つづく

東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う(4)深い傷

毎日新聞 3月10日朝刊 〔都内版〕
◇切れ目なく続いた苦しみ−−「喪失」の現場に立つ
 JR亀戸駅から江東区越中島方面に延びた一本の鉄路。戦前からある貨物専用線である。大空襲当時のままという貨物線のガード上で平田健二さん(80)=江東区大島=は、重傷を負った日のことを振り返った。
 「父は大工で、大切な大工道具が燃えないように、土手のガードに隠せといわれ、自宅近くにある土手に夢中で上がり、ガード上の片隅に道具を置いた直後でした。降ってくる焼夷(しょうい)弾の一つが右肩に当たって右手首を直撃。手首と手の甲の骨が砕けて大量に出血しました。満足な治療が受けられなかったために、5本の指は動かなくなってしまいました」
 平田さん一家は疎開中の妹を除き、父母と6人兄弟(男2人、女4人)で暮らしていた。家族は火の海に取り巻かれ、母、姉、妹2人、弟の合わせて5人が犠牲となった。遺骨のあるのは姉だけで、母らはどこで亡くなったのか分かっていない。
 平田さんは当時17歳。地元の軍需工場に勤め、働きながら商業学校の夜間部に通学していた。
 「戦後、夜間部を卒業しましたが、右手が不自由なために、雇ってくれる会社はなく、夏はアイスキャンデー売り、冬はラーメン屋の屋台引き。さまざまな職を転々としました。人前に右手をさらすのが嫌で、実につらい思いをしました」
 その後、友人が経営する鉄鋼関係の販売店に就職。97年に69歳で退職するまで同店に勤めた。
 「厚生年金のつかないような零細企業でした。国民年金だけでは暮らせないので、いまでも週2回イベントホールの掃除などをして、生活の足しにしています」
 失った右手機能は平田さんを苦しめ、戦後から現在の生活にまで切れ目なく長い尾を引いている。毎年10月を過ぎると、右手首から先が氷のように冷たく感じられるという。その手は現在、障害3級の認定を受けている。
 「障害手当といっても毎月7750円。しかもその支給を受けるようになったのは69歳前後からでした」
 いまでも文字を書くのがつらく、50枚の年賀状を書くのに、5日間もかかるという。
 「家族5人を空襲で殺され、空襲犠牲者を悼む単独の慰霊堂すらない。私自身も右手に重い障害を負い、戦争がいかに残酷に人の命を奪い、人を傷つけるものなのかを身をもって体験しました。大空襲の被害者たちに対し、国はきちんと責任を取ってほしい」【沢田猛】=つづく

東京・重慶・戦禍の空の下:大空襲・大爆撃訴訟を追う(5)慰霊碑

毎日新聞 3月11日朝刊 〔都内版〕
◇「犠牲者」法は認めず−−国による建立にこだわる
 「足を骨折した祖父を背負い、家族が最初に避難したのがこの境内でした。火の粉が衣服に次々に付いては燃え、やがて黒煙で目の前が見えなくなり、息もできなくなって、祖父を置き去りにして逃げざるを得ませんでした。自分自身を守るのが精いっぱいで……」
 江東区森下の家具店経営、滝保清さん(79)は旧宅近くにある深川神明宮の石碑の前で、大空襲時の苦い記憶を語った。自責の念にかられ、父親代わりだった祖父の死の真相を40年以上、肉親以外には話せなかった。
 滝さんは当時16歳。父は病死し、祖父母に母、妹との5人家族。祖父母と妹の3人が犠牲となった。
 滝さんは大空襲訴訟原告団には加わっていない。しかし、戦災の事実を形あるものとして後世に伝えようと、全国戦災犠牲者平和慰霊碑の建立請願の代表として20年近く独自に運動を展開してきた。
 「あの戦争は内閣の責任で開戦しました。『帝都を守れ』と戦時中、国は私たちに協力を求めたのだから、その犠牲者を悼む慰霊碑は国が作るのが筋」と滝さんは力を込める。
 滝さんは91年5月、慰霊碑建立を目指す署名を全国の家具産地の団体を中心に呼びかけ、約11万5000人から賛同の署名を集めた。この署名がもとになり、墨田区をはじめとする6区議会、さらに都議会も慰霊碑建立の請願を採択、05年11月には衆議院本会議で全会一致で採択された。滝さんらは一連の請願の成果を踏まえ、07年9月、慰霊碑建立に向けた要望書を総務相に提出したがまだ回答はない。
 「忘れられない光景があります。助かった母と焼け野原を歩いているとき、ある女性が黒焦げの赤ん坊を抱きとめ『熱かったろう。つらかったろう。今度生まれ変わったら戦争のない、平和な時代に生まれてくるんだよ』と泣きながらその子に告げていました。私が生きている間に、国は誠意を示してほしい」
 肉親の無残な死を含め、残酷な死を遂げた人たちの現場を見てきた滝さんの慰霊碑建立にこだわる原風景をうかがわせるような言葉に思える。
 大空襲訴訟原告団の星野弘団長(77)は「国による慰霊碑ばかりか、東京を含めた全国的な空襲犠牲者の人数の統計すら政府にない。結局、法の上では民間人の空襲死傷者を戦争犠牲者として認めていない。空襲犠牲者に安らかに眠ってもらえるような道も、ぜひ切り開いていきたい」と語っている。
 原告団の前に立ちはだかる国の厚い壁。提訴から2年。法廷は新たなラウンドに入った。【沢田猛】=つづく(次回は16日に掲載)