産経新聞2008.2.26 大岡昇平氏、上坂冬子氏 対談(上)

【B級戦犯・岡田中将の「法戦」】「波」(新潮社)昭和57年5月号掲載

大岡昇平氏:映画「明日への遺言」の原作『ながい旅』を昭和57年に発表した大岡昇平氏は、読書情報誌「波」(新潮社)の同年5月号で、作家の上坂冬子氏と対談を行っている。「B級戦犯・岡田中将の『法戦』」と題した対談の模様を2回にわたって抄録する。

≪上坂「公正で完璧だった裁判」≫≪大岡「敗戦後の日本人を批判」≫
■岡田中将との出会い

上坂 『ながい旅』を拝見して、岡田資中将とはこれだけしっかりしたご縁がおありになったのかと、初めて知りました。実は、私もB・C級戦犯のなかで一番先に着目したのは、この岡田さんなんです。

大岡 そういえば、あなたは愛知県のご出身でしたね。

上坂 はい、そうなんです。岡田資陸軍中将は愛知、岐阜にまたがる東海軍司令官として、名古屋空襲のときに撃墜したB29搭乗員38名の処刑の責任を問われて、昭和23年5月、横浜の軍事裁判所で絞首刑の判決を受け、その翌年に処刑されましたが、私も岡田さんのことを書きたくて、ずいぶん資料を集めましたし、関係者にも取材しました。けれども、岡田中将のお嬢さんのお婿さんである藤本正雄さんにお会いしたときに、大岡昇平先生がお書きくださることになっていますと聞かされて、あっさりと諦(あきら)めました(笑)。

大岡 ほう、それはいつ頃のことですか。

上坂 3年くらい前です。私、藤本さんのご家族を、立派だと思いましたね。いつお書きいただけるか分からないけれども、うちは一本に絞りますとはっきりおっしゃった。話を提供する側としては、大切なモラルです。

大岡 それは存じませんでした。何しろここ数年、心臓を悪くするわ、眼を悪くするわで、いつになったら書けるのか、実際、見当もつきませんで…。


上坂 岡田中将との出会いは、ずいぶん前になるんですね。

大岡 昭和40年、集英社の「昭和戦争文学全集」の編集に加わって、追悼文集『巣鴨の十三階段』を読んで、岡田中将の人物に感銘を受けたのが最初ですから、もう20年近くつき合ってきた勘定です。

上坂 横浜での裁判を主軸にした作品のご構想は、『レイテ戦記』執筆中に立てられたと、本文中にお書きになっていますね。

大岡 そうです。私は捕虜になったダメな兵隊ですけれど、一口に軍人と言っても、他人に特攻を命じながら自分は台湾に逃げてしまうヒドい将官もいれば、レイテの戦闘を指揮した鈴木三十五軍司令官のような誠実な将官もいるという具合で、実にさまざまです。『レイテ戦記』では、戦場の様子を主に書きましたので、今度はそういう将官たちの中でもとびきり上等な岡田中将について、その人間を書いてみたいと思うようになったのです。


■B・C級裁判中のA級裁判

上坂 本格的な取材を始められたのは、いつごろからですか。

大岡 昭和47年ごろからです。「新潮」に一挙掲載の予定だったので、編集部の坂本忠雄君と一緒に名古屋へ行って愛知時計など空襲で大被害を受けたところを廻って、当時の様子を聞いたり、弁護人の一人だった佐伯千仭氏を京都に訪ねたり…。岡田中将のご遺族にもお会いしました。

上坂 アメリカの国立公文書館にあった裁判記録が公開されたのが、30年後ですから、昭和53年ですね。

大岡 それまでが長くてね。およその輪郭は分かっていても、肝心のものが向こうへ行ったきりだったので、往生しましたよ。

上坂 私もアメリカからB・C級裁判の記録を手に入れたことがあるんですが、何しろ膨大な分量で…。

大岡 岡田中将に関するところだけでも、英文タイプで2000ページありましたよ。

上坂 この岡田ケースの裁判は、B・C級裁判中のA級裁判ですね。それは、ご本の中に出てくる裁判記録を読んで、つくづく感じました。

大岡 岡田裁判のポイントは二つあるんです。一つは、岡田中将は取り調べの結果、無差別爆撃であることを自白した米兵のみを処刑したのだから、いわゆる戦犯には当たらないという点。つまり、アメリカ軍は国際法規に違反して軍事目標ではない都市爆撃を行って、非戦闘員を殺傷した。従って、降下員はジュネーブ条約にいう俘虜(ふりょ)ではなく、アメリカ側が自ら戦争法規を犯したのだから、戦犯法廷を構成することはできないという主張です。もう一つは、近く米軍の上陸もありうるという状況下で、略式裁判による処刑手続きもやむを得なかったのではないかということ。

上坂 どちらもきわめて論理的な異議申し立てで、これだけ完璧(かんぺき)に行われた裁判は、私の調べた限りでは、他にありませんね。たとえば、主任弁護人のフェザーストン博士は、米軍の無差別爆撃を立証するために、神戸空襲に遇(あ)った孤児院の院長に証言を求めるなど、次々と証人を繰り出します。こういうことが認められること自体、この裁判がいかに公正であったかを示しています。

大岡 敗戦直後の裁判だったら、裁判長はそこまで言わせなかったでしょうからね。A級裁判で採用されなかった、アメリカ側にとって不利な証言も取り上げられています。

上坂 これはアメリカも自慢していいですね。後世に残る立派なサンプルです。

大岡 裁判官や弁護人の態度も立派だったけれど、私が一番感心したのは、やはり被告岡田中将の態度です。岡田さんは法廷闘争を「法戦」と称して、本土防衛作戦の延長と考えています。つまり、これは敗戦後の日本人一般についての批判でもあったのです。

上坂 岡田中将の有名な言葉を引いていらっしゃいますね。「敗戦直後の世相を見るに言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負うのか? 何故堂々と世界環視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、亦重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか? 要人にして徒に勇気を欠きて死を急ぎ、或いは建軍の本義を忘れて徒に責任の存在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある…」(続く)