産経新聞2008.3.4【「明日への遺言」の証言者たち】(5)原正人

原正人プロデューサー:映画「明日への遺言」の原正人プロデューサー(76)は、昭和20年8月15日の終戦の日を生涯、忘れることができない。「終戦前日の夜、私の実家は米軍機の空襲で焼かれたのです。翌日、家が燃え落ち、跡形もなくなった焼け野原で、家族5人は終戦を知らされました…」

8月14日、埼玉県熊谷市を米軍機が襲った。原さんは当時13歳、中学生だった。父は召集されて不在。長男の原さんは母と幼い弟3人を連れて戦火の中を逃げ惑った。「生まれたばかりの一番下の弟を背負ってね…。その夜は一家5人で野宿でした。このとき背中におぶった弟も、もう60歳を超えたのですね」としみじみと振り返る。

この空襲で熊谷市の中心部はほぼ壊滅したという。「町の真ん中を流れる川に熱さを逃れるため逃げ込んだ人たちが折り重なるように死んでいました。市中心部に軍事施設などまったくなかったのに。郊外には陸軍の飛行場があったから、ここを狙うのならまだしも分かるのですが…。結局、市民を標的にした米軍による残酷な無差別爆撃だったのです。翌日の終戦をすでに軍は知っていたはずなのですから」

こんな経験をしているからこそ、米軍による無差別爆撃が大きなテーマとなっている「明日への遺言」への思い入れは人一倍強い。「学徒動員で工場で働いていたのですが、帰宅途中、頭上スレスレを飛ぶグラマン機の銃撃を浴びたこともあります。仲間と必死で走って逃げ延びましたが…」映画の中で、蒼井優演じる鉄道局の車掌が弁護側証人として出廷するシーンがある。「戦闘機が列車の上空スレスレを飛び、一般乗客を狙って機銃掃射した」という彼女の証言と、この原さんの証言が重なる。

黒澤明監督の「乱」(昭和60年)の製作に携わるなど、映画プロデューサーとして黒澤組との付き合いの長い原さんが「明日への遺言」の脚本を初めて読んだのは、13年前にさかのぼる。脚本を書いた小泉堯史監督は当時、黒澤組のチーフ助監督だった。「黒澤監督が健在だったころに小泉さんを監督としてデビューさせたかった。『明日への遺言』は彼が温めていた構想の中の一本でした」と明かす。

当時、黒澤組の重鎮でスクリプター野上照代さんが、この脚本にほれ込んでいた。しかし、テーマが重厚な上に内容は地味で、新人監督には難しいと判断。いったん企画は立ち消えになる。その後、黒澤監督が死去。小泉監督は黒澤監督の遺稿となった脚本を用いて平成12年、「雨あがる」で監督デビューを果たした。

監督として順調に3作品をヒットさせ、成果を見せた小泉監督が「次の候補です」と原さんに持ってきたのが、またしても「明日への遺言」の脚本だった。「私はプロデューサーとして一線を退くつもりでした。若いプロデューサーが後を継いでくれればいいと考えていた。しかし、やはり今でもこの作品のテーマは13年前と同じで地味。このままでは実現は難しいかなと判断したのです」。原さんは現場復帰を決意し、自ら陣頭指揮を執って小泉監督に製作のゴーサインを出した。

あえて難しいテーマに踏み込む理由とは? 答えは明確だった。「戦後六十数年、日本は焦土から立ち直り、平和で豊かな国を取り戻したが、まるでその代償のように、人間としての美しさや心の豊かさを失ってしまったかのように思える。私は実体験で戦争を語ることができる最後の世代の一人として、この映画で“岡田資中将の遺言”を明日を担う若い人々に託したいのです」=おわり
                   
【用語解説】軍管区・方面軍
岡田資中将は終戦時、東海軍管区司令官および第十三方面軍司令官だった。方面軍は陸軍における本土決戦の戦闘上の単位で、第十三方面軍は東日本を束ねる第一総軍の隷下に入っていた。東海軍管区と第十三方面軍の司令部は建物、人員とも同じで、戦争末期の昭和20年2月、本土決戦をにらんで編成を改めた際、大阪に司令部を置く中部軍管区から独立して名古屋に設置された。戦後は方面軍は解散し、東海軍は第一復員省の東海監部となった。