産経新聞2008.3.4 大岡昇平氏、上坂冬子氏 対談(下)

■私の中の日本人
≪大岡「用意周到で粘り強い男」≫

 大岡 以前、本誌に「私の中の日本人」という企画がありましたが、実はこのとき初めて岡田中将のことを書きましてね。岡田中将について「戦後一般の虚脱状態の中で、判断力と気力に衰えを見せず、主張すべき点を堂々と主張したところに、私は日本人を認めたい。少なくとも、そういう日本人のほか私には興味がない」と書きましたよ。ところが、今度裁判記録に当たってみて、考えていた以上だった。用意周到だし、粘り強いし…。

 上坂 それは私も全く同感です。あれだけ頑張ったとは知りませんでした。無差別爆撃が立証されたとき、アメリカの裁判官も検察官もしばらく言葉がなく、法廷が一瞬しーんとなってしまったというあたり、さもあらんと思いました。一カ所、アレッと思ったのは、検事自ら岡田中将に対して「原爆を落とす命令は誰が下したと思うか」とたずねているところです。私がこれまで調べたB・C級裁判では、法廷で原爆の話は一切口にしてはいけないとされていました。

 大岡 ちゃんと裁判記録に載っていますよ。

 上坂 そうですか。でも、岡田中将は「知らない」と答えますね。知らないはずはないんですが。

 大岡 もちろんです。トルーマン大統領だということは、言わないでも分かっている。分かっていながら、そこまでは言わない。おそらく東海軍全体のことを考えたのでしょう。うまいところですね。

■伝説と事実のあいだ

 上坂 岡田中将は59歳で亡くなっていますが、武人として最後まで胸を張って自分の生をまっとうする。私、こういうの読んでると胸が切なくなるんです。岡田さんの写真を見ても、長身でスマートで、ほれぼれするような端正な顔だちをしています。大岡さんは、こういう背すじをまっすぐに伸ばした人がお好きなんでしょうね。女性の側からの俗な言葉で言うと、いかにももてそうな気がします。

 大岡 実際、もてたらしいです。奥さんへの遺書のなかに、「酒では君に迷惑をかけた」という一節がありますが、私は「酒と女と言いかえるべきである」と注釈しました(笑)。

 ≪上坂「あまりに多すぎる美談」≫

 上坂 私が岡田中将のことを調べていて、少し気になったのは、あまりにも美談が多すぎることでした。それはもうどれくらい立派な人だったかということが次から次へと伝わっていて、極端な例をあげると、処刑台の上に立って首に縄がかかった瞬間に「第十三方面軍を解く」って叫んで死んだとか。そんなことあり得ませんでしょ(笑)。

 大岡 それと同じで、やはり処刑台に向かうとき、岡田中将が「いい月ですなあ」と言ったという説がある。だから、私は気象台に問い合わせて、月齢を調べてもらいましたよ。そうすると、二十三夜なんですね。逆三日月の細いので、見えたかどうか。

 上坂 それはよくお調べになりましたね。そういうところもキチッとしてあるのは、読者としてうれしいです。もう一つ、うわさがうわさを呼んで、検事が論告をするときに、こんな立派な人にこういう刑を求刑しなくてはならないのは、まことに心が痛むと言って、ポロッと泣いたというのもあります。

 大岡 裁判長がそう言ったという説もある。裁判記録に出ていないので、私は書きませんでした。

 ■ながい旅を終えて

 上坂 裁判の結果、米軍の無差別爆撃など、相当程度立証されたにもかかわらず、判決は、やはり本国向けというか、アメリカの国民感情や当時の政治情勢を反映して、絞首刑を免れなかった。これは確かに悲劇ですけれど、岡田さん自身は言うべきことをすべて言い、やるべきことをすべてやったのですから、本望だったでしょうね。ところで、生死を超越するという岡田中将の決意は、岡田さんが日頃親しんでいた日蓮宗の教義とも関係があるとお書きになっていらっしゃいますね。

 大岡 そのことも、私が岡田中将に関心を持った理由の一つです。生死を超越したあの立派な態度は、いわゆる軍人精神だけでは説明がつきません。やはり、宗教というバックボーンが一本通っていたんでしょうね。もっとも、僕自身は日蓮宗の知識が乏しいので、必要最小限にとどめておきましたが。

 上坂 こういうことはお伺いしたら失礼に当たるのかもしれませんが、このごろのように平和祈念の日とか、戦没者追悼とか、忠魂碑がどうとか、いろいろあるなかで、このご本をお出しになるのは、多少そういうことは意識されたのでしょうか。

 大岡 いえ、別にそういうことはありません。やりかけの仕事はほかにもいろいろあるのですが、ちょうど去年が岡田さんの三十三回忌に当たるということで…。岡田中将の息子さんは、私が良く知っていた玉川学園の小原国芳さんのお嬢さんと結婚されたんです。そういうご縁はあるし、もうこの歳ですからね、縁のあることはだんだんに片付けていこうという、本当に老人くさい考え方からやったのです。

 上坂 「ながい旅」という題は、岡田中将の裁判記録が戦後30年たつまで解禁にならず、本当のことが分からなかった。そこに至るまでのながい時間を指しているというふうに読みましたけれど、著者の大岡さんご自身にとっても、ながい、ながい旅であったわけですね。

 大岡 そうおっしゃっていただけるのはありがたいことです。連載を始めた当座は、身体の具合が悪かったし、アメリカの空港ストのおかげで裁判記録の到着が大幅に遅れて、初めは死ぬ思いをしました。ところが、裁判、ことに岡田中将の証言に入ってからは、筆がどんどん動き出して、かえって体調が良くなってしまった。そういうふうないろいろなことがあったものですから、私自身もずいぶんながい旅をした気がしています。