産経新聞2008.2.26【「明日への遺言」の証言者たち】(4)ロジャー・パルバース

「これは本当の反戦映画だと自信を持って言えます。映画で少しでも平和に貢献できれば」と期待を込めるロジャー・パルバースさん 

 ■本当の反戦映画を追究
「もし3年前だったら、この作品を米国人が見ることはなかったのではないか」。「明日への遺言」の脚本を小泉堯史監督と共同で執筆したロジャー・パルバース氏は語気を強めた。

7年前に米中枢同時テロが起き、その後の米国によるイラクへの攻撃は当初、多くの米国人が支持していた。「だが米国の執拗(しつよう)な無差別爆撃が続く現実を前に、現在は米国人でさえ、米国は正しくないのではないかという気分になってきたのです。こんな時代に作られた『明日への遺言』は“本当”の反戦映画といえるでしょう。今なら米国人にも受け入れられるはずです」。実際、日本外国特派員協会での試写会のほか、2月初めにはカリフォルニア州サンタバーバラ国際映画祭でも上映され、好意的な反響だった。

パルバース氏は現在、東京工業大学教授として英語を教える一方、同大学の世界文明センター初代センター長として“専門分野を超えた世界に通用する研究者”を育てるための教育に尽力している。来日して42年、日本の戦史についての造詣も深く、劇作家、演出家としても活躍。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」では助監督を務め、黒木和雄監督が映画化した原爆がテーマの「父と暮せば」の原作(井上ひさし作の戯曲)を英訳するなど、日米文化の橋渡し役を長年にわたり果たしてきた。

小泉監督が全幅の信頼を寄せ、共同脚本のパートナーに指名した理由は、こんな氏の豊かな知識、経験を重視したのはもちろんだが、2人が共通の感性を共有できると判断したこともある。「戦争映画ではあるが、ドラマチックにも、情緒的にもならないように描きたい…」。この小泉監督の思いはパルバース氏にも以心伝心で伝わっていた。「明日への遺言」の脚本執筆のためにパルバース氏が取り寄せた裁判記録の資料は2000枚を超えた。「軍事裁判のリアリティーを追究し、事実を描くことに専念しようと決意しました」

これまで映画ではアニメ作品「アンネの日記」の脚本を執筆し、劇作家として数多くの作品を手掛けてきたが、「明日への遺言」の脚本は「一筋縄では行かなかった」と明かす。「岡田中将が信念と誇りをかけた“法戦”を淡々と描く一方、劇作家としては家族や部下たちと交わす心情表現を深みのある豊かさで描きたかった。例えば岡田中将と妻の愛情表現がその一つなのですが、彼が劇中、妻と交わす唯一の言葉が『本望である』ですからね」と苦笑する。

ニューヨークで生まれ育ったが、ベトナム戦争に反発、米国を離れ、オーストラリア国籍を取得した。「世界を転々としながら、気づいたら日本へたどりついていた」と豪快に笑う。日本に腰を落ち着けた大きな理由は、宮沢賢治に魅了されたからだ。今では敬愛する宮沢賢治の故郷、日本で骨を埋める覚悟だという。

反戦をテーマにした映画は世界中に数多くありますが、実はそのほとんどが反戦映画ではない」ときっぱりと切って捨てる。「暴力シーンにあふれ、相手の悪役をたたきのめす。これでは復讐(ふくしゅう)を認めたことと同じで、誰も幸せにはなれない。反戦ではないのです。『明日への遺言』では一切、バイオレンスのシーンがありません。信念、誇りを持った生き方というものは普遍的なもの。世界中の人に見てほしいですね」


【用語解説】巣鴨プリズン
現在、東京・池袋のサンシャイン60ビルが建っている場所にあった3階建ての鉄筋コンクリートの建物で、6棟に分かれていた。明治28年、警視庁監獄の支署として設置されたのが始まりで、戦後は連合国が接収、約4000人の戦犯が収容され、A級戦犯7人を含む60人の処刑が執行された。昭和33年までに全員が釈放。東京拘置所の名称に戻り、46年の小菅移転の後、解体された。サンシャインビルに隣接する東池袋中央公園には処刑場跡の慰霊碑が立っている。