産経新聞2008.2.5【「明日への遺言」の証言者たち】長男・岡田陽

【「明日への遺言」の証言者たち】(1)長男・岡田陽さん(上)

 ■私の知らない父に出会えた
「私は家の中での優しい父の顔しか知りません。でも外では映画の中の藤田まことさんのように厳しい顔で過ごしていたのでしょうね。私がずっと知らなかった、見たことのない父に映画の中で出会えた気がします」映画「明日への遺言」の主人公、岡田資中将の長男、陽(あきら)さん(84)は、東京都内の自宅でしみじみと語った。教職に就き、現在の肩書は玉川学園大学名誉教授。演劇人としても活躍し、1月には新作公演の演出も手掛けた。

映画の中に若き日の陽さんが登場する。父にフィアンセの純子さんを紹介するため、法廷の傍聴席に2人でやって来る。戦犯で逮捕された父とは法廷でしか会えなかったのだ。別れの時。藤田まことさん演じる岡田中将は陽さんに向かってこう告げる。「母さんを頼む…」岡田中将が温子さんと結婚したのは大正4年。8年に長女の達子さん、12年に長男の陽さんが生まれた。「父は好奇心旺盛な人でした。幼い私を連れて有楽町の日劇や浅草の舞台によく連れて行ってくれた。水泳が好きで、夏には家族を引き連れて海水浴へもよく出かけました。無理をして家族サービスをするのではなく、自分が一番楽しんでいたなあ…」

中将は大正14年、英国大使館付の武官補佐官となり、2年半、ロンドンに駐在している。赴任から東京に帰ると、家の庭は色とりどりの花で埋め尽くされた。「きっと英国人の花に囲まれた暮らしに感化されたのでしょう。庭中、ダリアやバラの花が咲いていました」だが、戦争が始まると庭から花が消え、野菜畑に変わっていった。「父は家族全員にクワを持たせましてね。皆で日が暮れるまで庭を耕しました。でもこんなつらい時にも父は故郷の鳥取弁で冗談を言い、皆を笑わせるんです。それが疲れが吹き飛ぶような絶妙のタイミングで…」

そして終戦。父が死刑判決が言い渡される前からすでに死を覚悟していたことは、家族全員が知っていた。取材中、陽さんの妻の純子さんはお茶を出してくれるなどしていたが、それ以外は陽さんの顔を見ないよう後ろ向きでずっとそばに座っていた。取材を終えて帰ろうとした際、純子さんに声をかけられた。「今日、主人が語ったことは初めて聞く話ばかりでした。自分の父や戦争について主人は普段はまったく語ろうとしないのですよ」

陽さんは父の記憶を正確に語ってくれた。耳が少し遠い以外、高齢を感じさせない聡明(そうめい)さだった。朗らかに笑いながら話してくれたが、本当は胸が張り裂けそうなつらい思い出を記憶の中によみがえらせていたに違いない。戦争責任を一人でかぶり部下を守って死を選んだ父は、同時に最愛の家族との永遠の別れを決意していたのだ。取材の終わりに陽さんがつぶやいた言葉が今も頭を離れない。「母さんを頼む…。こんな言葉を聞きたい息子なんていない。そんな簡単に背負えるものではなかった…」父親が処刑台に消えた当時、陽さんはまだ27歳だった。

■生まれる時代が早すぎた…

【「明日への遺言」の証言者たち】(2)長男・岡田陽さん(下) 2008.2.11
昭和20年9月20日、岡田資中将(右から2人目)が巣鴨プリズンへ出発する当日、愛知県半田市の自宅で撮影した家族の写真。中将の左隣が陽さん 

「きっと父は生まれる時代が早すぎたのだと思う。今生きていたら何をしていたでしょう…。何にでもがんばる人でしたから。長生きしていたらいろいろなことを成し遂げていたでしょうね」岡田資中将の長男、陽(あきら)さん(84)にとって、軍人としての勇気と誇りを持ち、米国の無差別空爆の違法性を訴えるためにたった一人で対峙(たいじ)、部下を守るために命を懸けた父の生き方は、息子という立場から見ても壮絶に思えた。

明日への遺言」の原作『ながい旅』の著者、大岡昇平氏は、こう書き記している。「戦争でよく戦うものは、平和のためにもよく戦うだろう」と。幼いころは父とよく演劇を見に行ったり、海水浴などに出かけたが、思春期になると自然と父に反発、避けるようになった。陽さんは17歳の時、両親に何の相談もなく、特攻隊を志願した。母は悲しみ反対したが父は何も言わなかった。

特別操縦見習兵として訓練を受けたが、日本では空戦用の航空機も尽き、陸戦の歩兵となるため船に乗ってサイパンへ向かった。その途中、爆撃を受けて船は沈没。8時間泳ぎ続け、命からがら陸にたどりついたという。「幼いころ父に連れられ、遠泳で鍛えられたときは、つらかったけど、このとき初めて感謝しました。あきらめずに泳ぎ続けることができたのは、あのときのつらい経験があったからですよ」と苦笑する。「米軍は台湾にいる日本軍を攻めに来るか、沖縄へ上陸してくるかだろう」。こう上官に言われた陽さんは、台湾の部隊で小隊長となり、米軍を迎え撃つための訓練に明け暮れていた。が、果たして米軍は沖縄に上陸。「私たちはほとんど武器を持っていなかった。もし上陸されて攻撃を受けていたら確実に死んでいました」と振り返る。

復員兵として日本に戻った陽さんは決意する。「これからは自由に生きよう」と。自宅近くにあった玉川学園の自由な校風にひかれ、同学園で教職についた。そして大好きな演劇を学校教育の中に取り入れ、自ら舞台の脚本を書き、多くの舞台で演出を手掛けた。父に反発してきたが、演劇の道へ進むきっかけを作ってくれたのも、幼いころさまざまな舞台公演を見せてくれた父だと認識している。

映画「明日への遺言」では法廷場面が多い。藤田まこと演じる父、岡田中将の表情はいつも険しく、厳しい。裁判が続く中、岡田中将が拘置されている刑務所の風呂に部下と一緒に入るシーンがある。部下たちはいつ死刑になるか分からない恐怖と不安にさらされている。岡田中将は部下を励ますために突然、童謡の「ふるさと」を口ずさむ。部下もそれに合わせ、やがて風呂場で大合唱が始まる。みんなの目には涙があふれていた…。「スクリーンには、家の中で朗らかに振る舞っていた優しい父の顔があった。私は映画で父と再会することができた…。涙が止まりませんでした」