朝日新聞 夕刊 2008年03月10日

東京大空襲 日本は「抗議」、米は「黙殺」
http://www.asahi.com/national/update/0310/TKY200803100199.html
朝日新聞 夕刊 2008年03月10日

第2次世界大戦の末期、日本は都市部などへ繰り返される爆撃を「国際法違反だ」と米国に抗議していた。だが米国は抗議を「黙殺」することを決定。約10万人が犠牲となる東京大空襲が始まったのは、その3日後の1945年3月10日未明だった。あれから63年。外交文書をひもとくと、自ら無差別攻撃をしながら、他国の同じ行為を批判する日米双方の姿が浮かび上がる。(谷津憲郎)

日本の一般市民を標的とする本格的な爆撃の始まりは、東京大空襲のちょうど5カ月前にさかのぼる。44年10月10日、延べ1000機を超える米艦載機が沖縄を襲い、約1000人が死傷。那覇市の90%が焼き払われた。 東京・麻布台の外交史料館には、この「那覇10・10空襲」について、当時の重光葵(しげみつまもる)外相名で起草されたアメリカへの抗議文が残っている。

「平和的人民の殺傷ならびに非軍事目標の攻撃は、今日、諸国家を規律する人道的原則ならびに国際法に違反せるものとして(略)」

国際法違反についての見解をただす抗議文は、駐スペイン公使を経て、44年12月に米国務省に届いた。 米側の対応は慎重だった。日本軍は38年から中国・重慶などを無差別爆撃、死者は1万人を超えたとされるが、米国もこれを「国際法上の問題」と批判していたからだ。 米国の史料集「合衆国の外交(FRUS)」の45年第6巻に収められたステティニアス国務長官の1月18日付の書簡には、様々なケースを考えたことが記されている

「このような攻撃を中止することに同意したら、どんな反響があるか▽国際法違反だとしたうえで、攻撃は続けると回答したら、どうなるか▽アメリカの見解では国際法違反にあたらないと答えたら、どうなるか」

3月6日(日本時間で6日夜〜7日昼)、国務・陸軍・海軍3省調整委員会は最終見解をまとめ、同長官に示した。 「抗議文のような攻撃が国際法違反であることを否定すれば、当政府がたびたび表明してきた見解と矛盾する。一方、もし国際法違反であると認めれば、敵領内に不時着した兵士を危険に陥れ、戦犯扱いの目にあわせるかもしれない」 国際法違反であるともないとも言わず、黙殺する。それが結論だった。 日本はその事実を知らず、東京大空襲の12日後にも再び抗議した。

「3月10日、3月12日、3月13日、3月14日、東京、名古屋、大阪などに来襲せる米軍機による攻撃は、故意に無辜(むこ)の平和的人民を殺傷する方法をとりたるものと断ずるほかなく(略)」

米側に届いたのは7月30日。1週間後には広島に原爆が落とされた。