大岡昇平「ながい旅」に書かれた本事件に関するいくつかの事実

映画「明日への遺言」の原作である、「ながい旅」に書かれた内容からメモ

1岡田中将の人となり

岡田資陸軍中将 鳥取県出身、日蓮宗
明治23年4月14日生まれ
陸軍士官学校卒→陸軍大学
→大正14年イギリス大使館付武官(大尉)
→昭和12年日中戦争武漢作戦参加(大佐)前線指揮
→昭和14年千葉戦車学校長(少将)→技術管理面(中将)
→昭和18年名古屋・東海軍需管部長
→昭和20年第十三方面軍司令官、兼東海軍管区司令官
裁判中に「自分は戦車兵である」と述べており、陸戦、戦車の技術面に詳しいが国際法関係の知識はないと思われる。
残した主な記録:「巣鴨の十三階段」、「毒箭」(遺書)

2名古屋空襲の様子

昭和19年12月13日名古屋初空襲
昭和20年3月12日低空空襲が開始、以来多数回にわたる空襲
5月14日名古屋への焼夷弾による最大の空襲
6月9日、大規模空襲で三菱工場などで多くの死者

アメリカ兵処刑の経緯

(A案件)被告:伊藤法務少佐、岡田中将
5月14日名古屋への焼夷弾による最大の空襲
→この時のB29搭乗員、11名捕獲
6月25日軍検察官の捜査終了→軍律により死刑の結論、伊藤法務少佐担当岡田中将裁可
6月26日第一総軍(東京)に死刑の裁可を得るよう伊藤法務少佐が出かける
 通達の存在のため:陸亜「」
7月5日第一総軍(東京)の許可
7月12日処刑、11名
(この案件では担当した伊藤法務少佐に横浜裁判で死刑判決→後に減刑され終身刑

(B案件)被告:岡田中将、その他計20人
5月14日名古屋への焼夷弾による最大の空襲
→B29搭乗員、27名捕獲(5/29〜6/26の各所の爆撃をした者)
6月20日岡田中将&O法務少将が処罰検討(略式裁判)→軍律を適用し死刑の結論
岡田中将は、捜査、総軍の許可を得ず、略式裁判で死刑にする決断をする
6月28日11名処刑
7月12〜15日16名処刑(合計27名を死刑)
昭和21年、日本の自主的調査で山上宗治法務少将が岡田、O法務少将に尋問
昭和21年2月12日:2回目尋問前にO法務少将は自殺
メモで「B29搭乗員27名処刑の経緯は参謀部と副官で行ったことで、終戦まで自分は知らなかった」と書いた