自由主義史観研究会の見方

映画『明日への遺言』と無差別爆撃について、飯嶋七生(自由主義史観研究会会報編集長)
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi154.html
◆映画の主題 「責任」と「正義」

「国敗れて上将が、求めて責任を取るのは、当然過ぎる事ではありませんか。そして法廷では懺悔も躊躇もせぬ代りに、主張すべきは、堂々と申し開かなくてはなりません」(「富士よ晴れぬか」)

岡田中将は、遺稿で右のように記したとおりの姿勢を貫き、日本人のみならず敵国人の尊敬も集めた人物であった。映画『明日への遺言』は、小泉堯史監督が、大岡昇平の『ながい旅』(角川文庫より再販)を読んで感銘を受けてから15年にわたって暖めてきた企画だったという。  

民間企業から官庁にいたるまで不祥事が相次ぐ昨今、責任者の身の処し方に批判が絶えない。人の上に立つということは責任を負うことでもある。この映画は「責任」と「正義」が主題であった。

岡田資中将は、昭和20年の2月、迫り来る本土決戦に備えて、東海軍管区司令官となった。当時55歳、最年少の方面軍司令官である。それと前後して、アメリカ軍は日本の都市爆撃を敢行し、東京大空襲では一夜で10万人が死亡するなど、非戦闘員に対する殺戮を禁じた戦時国際法を完全に蹂躙していた。  

岡田中将の任地である名古屋にも無差別な絨毯爆撃が繰り返し行われ(およそ38回に及ぶという)、大勢の民間人死傷者を出した。そうしたなか、名古屋空襲のさい、撃墜されたアメリカ兵が、戦時国際法違反の容疑で処刑された。  

当時の国民感情からすれば、「さんざん爆弾で人を殺しておいて、自分はパラシュートで降りてきて助かろう、というのは虫がよすぎる」という声が充ち満ちたのも無理はない。しかし、岡田中将はそうした怨嗟の声に流されて、アメリカ兵を処刑したのではなかった。映画の中で、検事に米兵の殺害は空爆への報復か?と訊かれた中将が「『報復』ではない。『処罰』である」と答えたように、それは冷静なる判断に基づいたものであった。  

そして、空襲下の混乱のなかで略式の手続きで処刑せざるを得なかったことを主張し、また、直接手を下した部下の生命を守るため「責任」を一身に背負った。映画は、「戦後」とよばれる時代になっても横浜法廷を舞台に「法戦」を続ける古武士の如き中将の姿を、敬意をもって描写している。  


◆映画の論点

岡田中将がB級戦犯とされたのは、無差別爆撃を行ったアメリカ兵を処刑したことが、「捕虜」の残虐な扱いを禁じた国際法違反であるということであった。しかし、爆撃機の搭乗員はジュネーブ条約で定められた「捕虜」ではなく、民間人を無差別殺戮した「戦争犯罪人」にあたり、それを処刑することは違法ではないというのが、中将側の主張である。

これが映画の観客に伝わったかどうか、さらにいえば、戦勝国によって敗戦国を裁くのは一方的であり、不公平ではないか、と思わせることが出来たであろうか。  

軍事・戦史に詳しくはない一観客に訊いてみたところ、前者は理解できたが、後者は左程でもないと答えた。さもあろう。岡田中将についたアメリカ人弁護士が非常に親身、且つ公平な弁論を行ったこと、検察側、裁判委員長さえも中将の人格に惹かれて好意的な質問をし、敵役の検事に至っては中将の助命嘆願書に署名していることが明らかにされるからである。  

たしかに、東京裁判でもアメリカ人弁護士は公平であったというから、そうした個々人の行動は評価できるだろうが、国家対国家ということになれば、そうした容赦はあろうはずはない。  

「敗戦直後の世相を見るに、言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負ふのか?何故堂々と世界環視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、亦重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか?」  

これは、中将遺稿中の憤激であるが、こうした不公平感があまり観客に伝わらなかったのが惜しまれる。  

弁護人らアメリカ人の陽気な人間性(映画においては俳優の演技であるが、事実に近い)も一因であるが、なによりも大きな要因は、映画の冒頭、無差別爆撃は日本も中国で行ってきたと解説するモノクロフィルムを見せられたせいではなかろうか。  

明日への遺言』公式ブログにも批判が殺到しているが、このフィルムの中には、プロパガンダ映画『バトル・オブ・チャイナ』に登場する「上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊」が、史実のごとく映し出されるのである。  

東京大空襲を記録撮影した警察官、石川光陽の貴重な写真が使われ、無惨な焼死体となった同胞の姿が衝撃的であるだけに、そこで「日本も中国では同じ事をしていたのである」という映像とナレーションを挿入することは、〈戦争ならばお互い様〉という印象を醸成してしまいかねない。  

日本側を戦争被害者として描くときの不文律として、日本の加害行為を〈枕〉に入れなければならない、という暗黙の縛りが存在することは、以前にも小誌で指摘した。これは制作者のアリバイ作りであり、最初から批判は承知の上なのかもしれない。  


◆日本は無差別爆撃をしたか?

「1938年から始まった重慶爆撃は当初は飛行場や軍事施設のみを攻撃していたのですが、重慶市街にも相当数の支那軍側の対空砲台があり、そのため日本軍の被害も増大する状況となったので、1940年6月頃になって作戦指導部は市街地域の徹底した爆撃を決意しました」(海軍航空隊・巌谷二三男氏、陸軍航空隊独立第18中隊・河内山譲氏の証言)。

この証言にあるように、1940年後半から、日本軍が、国民党軍の軍事施設のみに照準を絞った爆撃から、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢や重要資源、主要交通機関等を空爆目標にしたのは事実である。  

軍事技術の発達した現代でも、ピンポイント爆撃に誤爆があるように、ましてや当時の日本軍の空爆が民間人を整然と避けたなどと強弁するつもりはない。重慶市街地からの対空砲火に反撃したことにより、結果的に五年間の攻撃で1万人の死傷者が出たということである。だが、国民党軍は、上海で国際租界のホテルやデパートを故意に狙って空爆し、日本軍の仕業に見せかけるなどの工作を行っており、それらまで、日本軍による被害とされ、年々犠牲者数が加算され始めている。  

最近よく見かける風潮に、この重慶爆撃を、当初から非戦闘員殺傷を企図した東京大空襲ヒロシマナガサキ等と同列に論じる説、たとえば「(引用者注・無差別爆撃に)先鞭をつけたのが、われわれ日本軍です。それは、ブーメランのように東京に舞い戻ってきます、大阪に舞い戻ってきます。横浜にも神戸にも、日本の60以上の都市に舞い戻ってきます。それは広島と長崎で頂点に達しました(前田哲夫『戦略爆撃の思想』著者)」といった見解がある。

日本側が原爆や空襲被害を描く際には「重慶爆撃」がセットにされ、満州・朝鮮での邦人被害は「南京虐殺」と抱き合わせにされる。結局、日本が悪かったから日本人は悲惨な目にあったのだ、と落着するような論理は決して通用させてはならない。  

重慶で行われたアジアサッカーの試合でも、日本国歌にブーイングを浴びせ、現地入りした日本人サポーターは中国人に暴行を受けるなどしたが、それを報じるニュースでは重慶爆撃のモノクロフィルムを映し出して、〈だから日本人は暴行されても仕方がない〉と言いたげであった。

本年3月には、東京大空襲を描いたテレビドラマが放映されたが、案の定、「重慶爆撃」が「枕詞」に語られた。  

しかしながら、戦犯裁判なるものは「勝者の裁き」であった、と正面から見据える映画が世に出たことは、素直に歓迎したい。  

東条英機元首相の「法戦」を描いた映画『プライド』が公開されたときほど、世間の反発が少ないのも、時代の変化を感じさせる。敗戦から占領下に私たちが何を忘れさせられたのか?考える好機としてほしい。