あの日僕らの命はトイレットペーパーより軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走 NTV

演出:大谷太郎  脚本:中園ミホ 出演:小泉孝太郎大泉洋阿部サダヲ加藤あい山崎努淡島千景 
関連ホームページ http://www.ntv.co.jp/cowra/ 
…かつて第二次世界大戦で兵役についていた朝倉憲一(山恕W努)は、孫娘・舞(加藤あい)に連れられ、オーストラリア・シドニーの西320kmにあるカウラ(Cowra)という小さな町にたどり着いた。事情を何も知らない舞は、憲一が何故今ここに来たのか、何をしに来たのかわからないまま、目の前に広がる何もない荒涼とした大地に呆然とする。憲一は“ある想い”を胸にこの地にやってきたのだった。その昔、自分が”捕虜”として過ごした地、カウラに。64年前、ここで起きた出来事。そして、届けられなかった戦友の想い
 昭和19年1月。 夏九八五三部隊に所属する兵長の朝倉憲一(小泉孝太郎)は、上官の嘉納二郎伍長(大泉洋)と共にニューブリテン島で連合国軍と戦っていた。悪化する戦況。食料も尽き、仲間ともはぐれ、何十日もひたすら逃げ続けることしか出来なかった2人の前に、ある日、連合国軍の海兵隊が現れる。ついに、ここで殺されてしまうのか。それとも捕虜となり辱めを受けるのか―。当時、日本政府は日本兵の捕虜は存在しないと公表していた。捕虜になることは“戦死”つまり、“死”として家族にも伝えられていた。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」叩き込まれた「戦陣訓」が憲一の頭をよぎる。これからどんな苦難が待ち受けているのか、どんな残酷な方法で処刑されるのか。いっそ殺してくれ、と懇願する憲一だったが、その願いは聞き入れられないままオーストラリアへと連行されてしまう。そうしてたどり着いたカウラ第12捕虜収容所で、憲一は“思いもよらない光景”を目の当たりにする。 野球、麻雀、花札をはじめとする遊びに興じる日本人捕虜たち。十分な食事、そして十分すぎる自由。捕虜に身をやつす自分が、この体たらくで良いのか。生き恥をさらしながらもおめおめと生きていていいのか、それとも潔く自決すべきなのか――答えのない自問を繰り返す憲一だったが、数ヶ月前までの激戦が嘘のように、ただただ、のどかな時間が流れていくのだった。
 ところが、ある日、黒木(阿部サダヲ)という軍曹たちが新たに捕虜としてやってくる。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」平和な日々の中で憲一たちが忘れかけていた、あの「戦陣訓」を声高に叫ぶ黒木たち。自分は今、何をすべきなのか?それまでの安穏とした日々が少しずつ、変わっていく。 そして、1944年8月のある満月の夜―

◇新聞各社の報道メモ
「戦陣訓の悲劇を問う」(赤旗、6月22日)
http://www.asyura2.com/08/senkyo51/msg/419.html
「虜囚の恥が招いた悲劇」(東京新聞、6月26日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2008062602000122.html
「インタビュー脚本家・中園ミホ」(産経新聞、7月3日)
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080703/tnr0807030811002-n1.htm


◇スポーツ報知「小泉孝太郎、名誉の死へ大脱走
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080408-OHT1T00076.htm
 脚本は「anego」「ハケンの品格」で知られる中園ミホさん(48)。87歳になる叔父からカウラでの実際の捕虜生活を聞かされた中園さんが「いつか表舞台に出さなければいけない史実」と思いを巡らせ、ようやく実現した作品。配役も主役に小泉、その上官には大泉洋という「ハケンの品格」のコンビに即決したという。

 同局では55年企画として戦争を題材にスペシャルドラマの3部作を構成。3月に放送された第1弾の「東京大空襲」は、町中を火の海にする爆撃シーンを再現したが、今回は「爆撃などの派手な戦争ものではなく、ヒューマンドラマとして見てほしい」と次屋尚プロデューサー。さらに第3弾も今後登場することに。

◇日テレ記者会見
http://dogatch.jp/blog/news/ntv/0806192025.html
記者会見が行われ、伯父から聞いた実話をもとに脚本を仕上げた中園ミホ・出演者がともにこのドラマへの重厚で痛切な想いを語ってくれた。

【プロデューサーコメント】
このドラマはほかの戦争ものとは位置づけが違うのではないかと思います。多くの戦争ドラマは突撃、殺戮、虐殺というのを描くことにより、その戦争の悲惨さを描きますが今回は戦闘機の一機も、戦車も出てきません。そういう意味で通常の戦争ドラマとは一線を画しているものではないかと思います。よく人は「なぜ生きてるんだろう」と、いつも問いかけや疑問を持つ時があるかと思います。このドラマはまったく逆で、「なぜ死ぬんだろう、なぜ死なないといけないんだろう」という思いを題材にしています。ラストシーンでは現在の渋谷のスクランブル交差点が出てきますが、そこに歩いてる方々ひとりひとりが、それぞれに生きていて、それぞれに歴史があるということにもこのドラマを通じてすこしでも感じてもらえたらと思っております

【脚本・中園ミホ コメント】
シナリオライターになってからいつかこの話を必ず描かなければいけないと思っていました。このドラマでの最高の幸運はこの小泉さんと大泉さんに演じていただけたことだと思います。ものすごい集中力と、気迫で演じてくれ、小泉さんは一番重要で重いシーンの撮影日、きょうは話しかけないでというオーラを出してまして(笑)、大泉さんもいつも腹筋が痛くなるほどおもしろい方なんですが、ひとこともおもしろいことを言わず、おもしろいどころか何も口を利いてくれないんです、食事もとっていないと聞いて心配になったことがありました。熱い気迫を感じて奇跡が起こる、そう思いました。恋愛ドラマなどいままで書いてきましたが、こんなに視聴率がほしいと思ったのは初めてです。

☆どうか、戦争を知っている方も、戦争を知らないこの現代を生き抜くみなさんも、その胸に深く焼き付けてください。


◇読売新聞(2008年7月2日)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20080702et07.htm
日本人捕虜の集団脱走:日テレ系証言を基にドラマ化
 オーストラリアの小さな町カウラで、戦時中、収容所から日本人捕虜が集団脱走を図り、多くの犠牲者を出した事件があった。脚本家・中園ミホさんが、母方の親族の証言を基に脚本化したドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーより軽かった カウラ捕虜収容所からの大脱走」が、8日午後9時から日本テレビ系で放送される。現地の収容所跡地や日本人墓地で行われたロケに同行した。(清岡央)
 主演は小泉孝太郎。メーンとなる戦時中の場面は国内で撮影され、カウラでは戦後の主人公を演じる山崎努が孫役の加藤あいを伴って、戦後初めてカウラを訪れる場面が撮影された。短いシーンだが、「現地ロケなしでは作品が成立しない」(中園さん)というほど、重要な意味を持つ。

 撮影が行われた収容所跡地は、今では一面の草原になっていた ドラマは6発の弾丸を受けながら、一命を取りとめた中園さんの大おじ・佐藤憲司さん(87)の体験を基にした。捕虜だったことすら家族に明かさなかった佐藤さんが、中園さんを伴ってカウラを訪れたのは28年前。戦友たちが眠る日本人墓地を訪れた佐藤さんが号泣し、そのとき中園さんは初めて事件の存在を知らされた。帰国し、事件について調べるうち、「恥ずかしい」「戦友に申し訳ない」という、生き残った捕虜たちの意識がその口を閉ざし、事件を広く知られないままにしていることを知った。
 「やまとなでしこ」(フジテレビ系)、「ハケンの品格」(日本テレビ系)などのヒット作で知られる中園さんは、「ほとんどの人が、家族にも言えないまま亡くなっていった。脚本家としてその事実を伝えたい、知ってもらいたいと思った」と、ドラマ化の構想を温め続けてきた。
 ロケは4月に行われ、事件の犠牲者が眠る日本人墓地は、地元の人たちによってきれいに手入れされ、芝の青さがまぶしかった。つえを手にした山崎が墓碑銘を読みながら犠牲となった戦友の名前を探す場面では、前かがみで歩く山崎の目から涙がこぼれた。

 戦争に関する本を何冊も読み、山崎自身が練った演技プランの中では、涙は想定していなかった。それが、現地ロケでは涙が自然とあふれた。「あの場所にはそういう力がある。来た甲斐(かい)があった」と山崎は語る。山崎の演技を見て中園さんは、「大おじに似ている」と驚いた。顔かたちは異なるが、撮影が進むうちに表情やしぐさが佐藤さんそっくりに見えたという。
 戦時中は疎開も経験し、「軍国少年だった」という山崎。「あのころ、危機感を感じずに過ごせたのは、佐藤さんのように、守ってくれた大人たちがいたから。俳優として自分にできることをやらないといけない。感謝を演技で表さないと」と、その思いを語る。

 ガソリンスタンドの店主役で出演した地元のドン・キブラーさん(72)のセリフは、加藤あいに向けた「64年前にこの町で何があったか、君は知らないのか」というもの。日豪友好活動に長く携わってきたキブラーさんは、「すべての日本の若者に話しかけるつもりで演技した」と話す。

 ロケの終盤、集団脱走事件が起きた収容所の跡地から、中園さんは携帯電話を使って佐藤さんに国際電話した。「今、収容所の跡地でロケしているの」。途中で電話を替わった山崎も、短く言葉を交わした。「(佐藤さんは)感激して、うまく言葉になっていなかったみたい」と中園さん。事件から64年が過ぎた収容所跡地の上には、紺碧(こんぺき)の空がどこまでも広がっていた。