LUST, CAUTION [色・戒](2007)

158分 中国/アメリカ 公開2008/02/02
監督:アン・リー 原作: チャン・アイリン 脚本:ワン・フイリンジェームズ・シェイマス
出演:トニー・レオン(イー長官)、タン・ウェイ(ワン・チアチー=マイ夫人=抗日女スパイ)

裏切り者である漢奸(中国人の対日協力者)から見た日中スパイ戦、しかし武器は銃ではなくセックスであり漢奸側が勝利するという意外な展開である。

中国映画は抗日闘争を長く主題としてきたがそこにも新しい時代が到来した。抗日映画では今まで漢奸は単なる悪人であったがこの映画では普通の中国人と同じように悩みを持つ人間として描かれており、映画は抗日闘争家の心情ではなくむしろ漢奸の心情にせまるものだ。漢奸である上海の国民党秘密警察の長官と抗日側女スパイとの争いは漢奸の孤独感と悲しみを印象づけながらも漢奸の側の勝利に終わるのは画期的であり、おそらく中国映画史上初めてではないだろうか。映画は抗日側の女の死よりも漢奸の悲しみによりそっている、それまで誰も信じず女だけに心を許していた長官は、女を失い更には部下からも実は監視されていた事を知り組織は自分さえも信用していなかった事を知る。それまでほとんど感情を表さなかった長官が、最後には目に涙を湛え女の部屋で悲しげにベッドをなでるシーンは印象的である。ここにきて映画の主題はセックスそのものより現在の中国国家の敵であった人間にも、実は当たり前の人間的な感情があった事を訴えている。これには中国の観客は大きなショックを受けるだろう。

漢奸側の勝利に到る抗争は銃撃戦ではなく、抗日スパイの女と警察長官とのセックスで表現されている。このためセックスシーンは激しく何回も繰り返され、長い。それは彼らの繰り返される闘争を暗示しており、カメラは最初に銃の所在を示して女が長官を暗殺する可能性を示すが以後はまったくそんな様子はなくなり、これが銃撃戦の映画ではない事を示している。主題は性交そのものであり、その性交は暗く官能や陶酔ではなく対立と緊張を印象付ける。しかしここで問題がある、日本ではセックスシーンの激しさが宣伝されたが、残念ながら日本やアメリカなどの観客から見るとこれはあまり激しいものではなく、漠然と何か不安感を湛えたものに留まったように思う。この映画の表現では日本や欧米では印象に残るようなものではなかったと思う。しかし中国人には印象深いに違いない、なぜなら中国では映画では一般的にこうした性交シーンは描かれることはなかったからだ。今回監督は中国国内用には激しいシーンをカットした版を用意したようだが、それでもテーマとしての性交の意味は通じただろう。

ここに到ってタイトル「色・戒」の意味がはっきりする。すなわちここでの色(性交)の戒めとは、一般論で官能に溺れることへの警告ではなく、あくまで日中戦争で対立する敵へ、性交を通して寝返る事への警告である。この戒めは更に近年急速に豊かになり精神性の堕落が時に警告される現代の中国人観客には印象深いだろう。こうした点で中国人観客にとっては、斬新な表現で深い意味を感じさせる映画であり、問題作として興味深く受け取られたのではないだろうか。

しかし興味の前提の異なる日本での評価はかなり異なるだろう。日本人から見てこの抗日闘争のテーマや、そこでのスパイの寝返りなどはそれ自体ではあまり興味をそそるものではない。肝心なのはそれを背景にした銃撃などのアクションやいつ発覚するかのサスペンスである。しかしこの映画にはこれは薄かった、抗日側も闘争の意味合いなどを説明することはないし、漢奸である長官も最後のシーンまでは感情は押し殺され敵役という以上の特別の意味や役を与えられていない。また宣伝の目玉となった性交シーンも日本人には上述したような銃を使わぬ闘争という意味合いより、純粋に官能性の方が期待される。だがそうした期待に応えるような性交シーンの表現ではなく、さりとてあまり刺激的でもない本作ではあまり高い評価は与えられないだろう。更に映画のテーマである漢奸側の心情の表現も、映画がそれまで長官の心情を描かず客に感情移入させるだけの準備がないため、映画がラストで行ったような控えめな描き方ではあまり面白みはない。

日本ではこの映画のラストはそれまでの性交シーンの意味合いが不明確なまま、刺激も乏しく、なんとなく女が情けにほだされて長官を逃がしたとしか受け取れないだろう、従って評価も高くはつけられない。簡単に言えば日本では、売り文句が誇大宣伝気味の、性交シーンのやや激しい恋愛ものとしか受け取れない。従って日本での興行があまりのびなかったのも当たり前である。

むしろ日本人にとって印象的なシーンは、主役二人が日本人だらけの会場で二人だけはしっかりと一つになりましょうという歌を唄うシーンではないだろうか。ここでは周囲をとりまく日本が物語の大きな背景となる究極的な悪を象徴している。この映画では日本人(軍人)は背景としてしか登場しないが、物語を推進する重要な意味を持っている事が確認される。つまり日本人にとってこの映画の意味は、こうした抗日映画が世界に通用する豪華な映画として製作され流通することにあるかもしれない。これはすなわちアメリカ映画が戦後60年間描いてきた、悪役としてのナチスドイツの役を日本が負うという事である。